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浅尾 拓也(あさお たくや、1984年10月22日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(投手)。
愛称はたっくん、浅尾きゅん[1]。 マネジメント契約先はスポーツビズ。 目次 [非表示] 1 経歴 1.1 プロ入り前 1.2 プロ入り後 2 プレースタイル 3 人物 4 速球に関する記録 5 詳細情報 5.1 年度別投手成績 5.2 背番号 5.3 タイトル・表彰 5.4 個人記録 6 コラム 7 脚注 8 関連項目 経歴 [編集] プロ入り前 [編集] 中学では捕手として軟式野球部に所属。愛知県立常滑北高等学校(現・愛知県立常滑高等学校)入学後も捕手を務めたが、投手不足の事情から2年生の時に投手に転向[2]。卒業後日本福祉大学に進学。愛知大学リーグの2部と3部のリーグで通算53試合に登板し、21勝9敗の成績を残した。2006年秋季の2部リーグでは名古屋産業大学との対戦でノーヒットノーランを達成した。愛知大学野球リーグ1部2部入れ替え戦で、同期入団の清水昭信(名城大学)に投げ勝ち、チームを1部昇格に導いた。大学入学時には138km/hだった球速は、2年秋に140km/hを突破し、4年秋に最速152km/hを記録している[3]。 2006年のドラフト会議で中日から3位指名され入団。日本福祉大学第1号のプロ野球選手となった。ドラフト前は中日以外の球団から指名されれば社会人野球に進むと宣言していた。 プロ入り後 [編集] 2007年4月10日の対阪神戦(甲子園球場)でリリーフとしてプロ入り初登板。4月24日の対広島戦(ナゴヤドーム)でプロ初勝利を挙げる(1回3奪三振)。5月9日の対広島戦(広島市民球場)で初先発。本塁打を2本打たれるものの、6回3安打2失点の成績でプロ2勝目を挙げた。さらにフレッシュオールスターに出場しセーブを挙げる。後半戦は肩を痛め、ほとんど登板機会はなかった。 2008年の開幕は故障の影響から2軍で迎える。その後故障から復帰し、1軍に昇格して主に中継ぎとして登板。オールスターゲーム終了後から北京オリンピック開催中は、五輪日本代表に招集された岩瀬仁紀に代わり抑えを任され、8月7日の対ヤクルト戦でプロ初セーブを挙げた。その後は岩瀬へと繋ぐ勝ちパターンでのセットアッパーとして起用された。 2009年は初の開幕1軍入りを果たす。開幕投手を務めて勝利投手となった。それ以後は先発では結果を残せずセットアッパーに廻った。7月にセ・リーグ新となる月間11ホールドを記録し、7月の月間MVPを受賞した。終盤では体調不良の岩瀬に代わりクローザーも務めた。このシーズンはチーム最多の67試合に登板したものの、特にヤクルト戦で打ち込まれた[4]ことが響いてチームワーストの9敗を喫した。 2010年も引き続きセットアッパーを務め、9月5日の対巨人戦で藤川球児(阪神)の「20試合連続ホールドポイント」を更新する「21試合連続ホールドポイント」を達成。9月12日の対横浜戦では久保田智之(阪神)のシーズン55ホールドポイントの記録を更新し、日本新記録となる56ホールドポイント目を上げると、9月25日の対横浜戦で同じく久保田のシーズン46ホールドの日本記録を更新する47ホールドをマークした。最終的にチーム最多の72試合(これは権藤博の球団記録を更新)に登板しリリーフ登板のみで12勝3敗、防御率1.68、WHIP0.87と大車輪の活躍で中日のリーグ優勝に大きく貢献した。しかし、ロッテとの日本シリーズでは王手をかけられ後がなくなった第7戦終盤にロングリリーフを任され、シーズン中にも経験しなかった4イニング登板を経験したものの、最後に岡田幸文に決勝打となる適時三塁打を打たれ敗戦投手となり、チームも日本シリーズ敗退となった。 プレースタイル [編集] 細身の体から繰り出される、最速157km/hのストレートが武器。変化球は縦に曲がるスライダー[5]、140km/h台の高速フォークボール(握りが浅くスプリットフィンガード・ファストボールに近い)、その速いボールに一転し、120km/h台のパームボールを持ち球として打者のタイミングを狂わすピッチングを持ち味としている。 2010年には与四球率1.12をマークし、通算の与四球率も1.92と抜群の制球力を誇るものの、2008年は体の開きがやや早いため抜け球が多い傾向にあり、暴投0、死球3と数字こそごく普通のものだったが、3死球全てが打者の頭部に当たって危険球退場になっている。通算3回の危険球退場は、桑田真澄と並ぶプロ野球タイ記録であるが、21年間のプロ生活で3回だった桑田に対し、浅尾はわずか1年で並んでしまった。 プロ入団時の会見では、セールスポイントとして速球以外に「けん制とフィールディング」をアピールした[2][6]。 セールスポイントのフィールディングではバント処理でその良さが多くみられ、二塁でアウトにすることが多い。ダブルプレーも取ったことがあり、落合監督に「あのプレーは浅尾にしかできない」と言わせるほどである。 打撃では、投手ながらプロ初安打で三塁打を放ち、2007年シーズンでは少ない打席ではあるが打率.273(11打数3安打)を記録している。 人物 [編集] チームの先輩である岩瀬仁紀と同じく、幼い頃からずっと愛知県内の学校・チームで過ごした、地元中の地元の選手である。また楽天の山崎武司と同じ知多市立八幡中学校の出身である。 1年目の春季キャンプで何もわからないときに「こっちへこいよ」と声をかけられて以来、朝倉健太を慕っている[7]。 チームの先輩である井端弘和にタメ口を使っているらしい(井端談)。 整った眉をしているが、産毛しか手入れをしていないという。また、多くの人に細い細いと言われるため、自分の眉を嫌っている。 左耳にピアスの穴が3つ空いているが、これは高校時代に「若気の至り」(本人談)で空けたもので、大学入学後はピアスをつけていない。 2009年12月28日、10年間の交際期間を経て高校時代の同級生と結婚した。 PR |
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